行事

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年中行事はどこの国、文化圏でもありますね。ハロウィンパーティーとかは実に楽しそうな感じがします。ヨーロッパではもっとも大切な行事はクリスマスでしょうね。謝肉祭の系統は日本では豊年祭となるのでしょう。自然の恵みに感謝する気持ちは人類共通なようです。

ここでは、日本の伝統行事をおさらいしようと思います。国土の位置から大陸の知識、文化がつよく影響しており、それは、古代の大陸の住人たちが、先進国家として、発展途上国であった日本にもたらしてくださた知恵や思想が大きく割合を占めています。証拠に、私たちの顔は平顔ですし、箸で飯を食い、感じを使っているのですから、祖先の勉学向上意識に感謝せねばならないと思うのです。

そうはいえ、島国の日本ですから恒常的に交流が維持されたわけではありません。頂いた知識をカスタマイズした、独自の文化も発展しました。その中で、ときに孤立し、ときに交流しつつできあ上がった独自の文化上の節目もあるのです。

日本の伝統行事はそのような環境で育て、「しきたり」となったのです。

では、日本の伝統文化を見ていきましょう。

日本の「しきたり」には大前提の思想があります。これは日本のオリジナルで、何をするにも基本となる事柄です。それは、「ハレ」と「ケ」です。ケは「ケガレ」ともいいます。言葉から歓迎することと、忌み嫌うこととなるのですが、それは厳密に振り返れば誤りで、日本人が生きていく上での大きなカテゴリーの2分と考えた方が理解しやすいでしょう。忌み嫌いたい「ケ」も、祖先はこれを避ける努力はしていません。生きるための戒めとして活かしていた事を知っておくことが、日本の伝統行事の継承、遂行、保全に役立つことですし、日本人である誇り、、アイデンティティ、が保存できるのです。

 

                • 節分

 

    節分は季節が変わるとする日の前日のことでしたが、春だけ、つまり立春の前日だけが残りました。 2月3日若しくは4日です。 現在では、社寺に集まった、年男(その年の干支生まれの男子)が集まって、豆まきが行われています。古代の中国では、年の始まりは春からでしたから、大晦日の行事でした。 この頃の中国の節分では、面で鬼に扮した人を桃の木で作られた弓矢で射って追っ払っていました。この行事のことを示す「追な(ついな)」という言葉が残されています。 日本へは奈良時代に伝わったようです。平安時代では宮中の大晦日の行事として行われていた記録が残っています。 当時は、豆まきはありません。毒草であり、葉に刺があるヒイラギと生臭いイワシの頭を魔除けとして門に吊るしていました。ヨーロッパの魔除けのまじないに酷似していますが偶然でしょうか。生臭いものには魔除けの効能があると信じられていました。 豆まきが始まったのは室町時代です。家庭でも行うようになったのは、江戸時代ですが、この頃、大晦日の行事から立春前日に変更が起こったようです。 豆まきは、煎いた豆を使用し、自分の年齢と同じ数の豆を食べると厄払いができます。 食べる豆の数がプラス1個とする地域もあります。  

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                • 初午(はつうま)

 

  2月初日の稲荷神社 縁日として全国でいろいろなやり方で行われている行事です。由来は京都伏見稲荷の祭事が起こりです。 具体的な日付が記録に残っています。 和銅4年(西暦711年)2月最初の午の日にこの神社に神が降臨したので、この行事が始まりました。 「稲荷」とは、狐のことではありません。日本人は古くから米穀が主食であったので、その「稲(いね)」が「成る」が語源です。転じて、食物全般を対象に信仰が広まり、漁村では大漁祈願、農村では五穀豊穣祈願の行事となりました。 メインのイベントは「夜店」です。子供たちには楽しみな行事です。      

                • ひな祭り

 

  ひな祭りは3月3日に行われる桃の節句で「女の子の節句」です。 神事としては、一部の地域に残されている「流し雛」しか残されておりません。 古代中国では、3月の最初の巳の日に行う「上巳節(じょうしせつ)」と言う行事がありました。川に入り身を清める儀式です。 これが日本に伝わったと考えられています。「流し雛」の原型でしょう。 室町時代には、帰属の女子が人形遊び「ひない祭り」がありました。これと中国の「上巳節」が重なったと推察します。 流し雛で行うことは、女児の「ケガレ(初潮と考えられる)」をひな人形に移して「ハレ」へ浄化する儀式ですから、人形は高価なものを使うことはなく、質素な人形を下流から海へ流してしまいます。 やがて、安土・桃山時代になると、貴族から武家へ伝わりました。 江戸時代には、「五節供(自然と信仰参照)」が定められ「桃の節句」となります。 この頃では、「清め」の風習はほとんど失い、現在のひな壇が考案され、豪商は見栄を競って、「京」の最新服飾コレクションの様相を呈し豪奢なひな人形を求めました。 中国では、桃の木は悪魔を払う霊力があるとしていましたので、季節も重なり桃の節句の由来となりました。 雛人形は節句の日を満了すると直ちに撤収せねば、その家の女児の婚期が著しく遅れるとされており、現在に至っています。   

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                • お彼岸

 

 仏教が想定する川(三途の川)を挟んで対岸を彼岸(ひがん)、手前岸を此岸(しがん)と言います。 いわゆる「あの世」の岸です。 「あの世」は一切の悩み、煩悩から解脱した状態、つまり悟りの境地の世界です。 対し、「この世」は生きることに固執し、死を恐れている「迷いに境地」であり、現在我私たちが棲む世界です。 「あの世」と「この世」は仏教が想定する世界観です。 お彼岸は、昼夜の時刻が等しい日である、春分の日を挟んで3日間、同じく秋分の日前後です。 太陽の運行が真東からら真西へ動くことから、西の最果てにあるとされる極楽浄土にちなんで、この日を仏事の日に選んでいます。ただし、春分、秋分共に、真東、真西に太陽が出没することはありません緯度により日にちが違います。 この日に行う仏事は、坊僧等から教示を受けることが最大の行です。 仏教徒の各家庭での菩提寺で坊僧が檀家に対して行う説法を聞きます。その後、先祖に思いを馳せ故人を偲び、ご先祖様を供養します。 仏前には甘く柔らかなお菓子を備えます。ぼた餅、お萩、お団子などが普通です。 寺では、「彼岸会」と言う大法要が行われます。 尚、この日が暦で干支、陰陽五行説、六曜のどこであっても「ケガレ」として扱います。「ハレ」の日ではないので、慶事の執行や晴れ着着用は日本人として慎まねばなりません。  

 

         

 

              • 花祭り

 

  仏教として、4月8日に行われる祭りです。キリスト教のクリスマスに該当します。釈迦の誕生日です。 尚、この日が暦で干支、陰陽五行説、六曜のどこであっても「ハレ」として扱います。「ケガレ」の日ではないので、慶事には良日です。 敬虔な仏教徒や、一部地域以外では現在ではこの日を特別に扱うことはないようです。各寺院では境内、お堂を花で飾ります。 仏教では釈迦の誕生日を「灌仏会(かんぶつえ)」、「仏生絵(ぶっしょうえ)」と呼びます。 ほとんどの寺院では、花飾りの小さなお動画作られ、内部の水盆に小さな仏像(釈迦像)をたて、参拝者は、甘茶を仏像の御頭に竹製の柄杓で注ぎます。 釈迦が誕生した瞬間に9匹の竜が天から現れ、水を吐き釈迦の産湯とした伝説が「甘茶注ぎ」の謂われです。 この行事の発祥は非常に古く、天竺(インド)で行われていた行事が奈良時代に日本に伝わっています。2000年以上連綿と続く行事です。本来は、甘茶ではなく、五香水でした。江戸時代に甘茶に変わったようです。 甘茶は参拝者にも振舞われるので、持ち帰ることができます。この甘茶で墨を擦り、 「千(ち)はやぶる卯月(うづき)八日は吉日よ 神さけ虫を成敗ぞする」 と自分で書いて、蚊帳と一緒に吊るしたり、逆さに玄関戸に貼り付けると虫除けとなるおまじないです。 細木数子氏の言うとおりするよりは効果はあります。多分。 これに似た行事は沖縄県でも残っていますが、仏事として行うより、サトウキビ収穫を終えた祝賀としています。「アブシバレー」と呼び、漢字は「悪虫払い」と書きます。 長野県、静岡県、愛知県では「霜月神楽(しもつきかぐら)」とすることもあります。特に、この地方では、「花神楽」と呼んでいます。奉納舞楽です。 かつては霜月(旧暦11月)の行事でした。現在は1月初旬に行われています。 

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              • 八十八夜

 

  立春から数えて88日目の夜です。5月2日です。 この日に摘むお茶が最高級をされています。「八十八夜の別れ霜」とうたわれるように、この日から霜の心配は無用とされ、種蒔きの時期がろうらいしました。 日本では「八」と言う字の形が末広がりであることから縁起の良い数字としています。「八十八」が八が重なることや、「米」の字に通じつことから、豊作祈願の神事を行う地方もあります。 瀬戸内海沿岸地方では、「魚島時(うおしまどき)」と言われ、豊漁の時期到来ともします。      

              • 端午(たんご)の節句

 

 5月5日の男の子の節句です。 中国で菖蒲(しょうぶ)やヨモギを門に吊るしたり、菖蒲酒を飲んで邪気をは払っていた行事が日本に伝わり「端午の節句」となりました。 端午の節句は本来は女の子の祭で、「五月忌み」と言って、田の神に対する女性の厄払いでした。田に仮小屋を建てたり社に泊り込んで、「ケガレ」を清める行事でした。 平安時代に男の子の節句に変わり始めたたようです。江戸時代では、「五節れ、端午の節句が男の子の節句に極められました。 端午の「端」は「切」を意味し、5月のはじめの午の日(うまのひ)のことです。この日は「5」が重なるので重五、重午といってこの行事の日としました。 平安時代では、馬上から走りながら的を射る「流鏑馬」や競馬が行われていました。菖蒲が「勝負」、「尚武」に通じることから、武事を尊び、男の子に菖蒲を身につけて飾っていましたが、頭の飾りに変化し、その後、兜を着けさせ、男の子を祝い始めました。 江戸時代に幕府が正式に男の子の節句したので、武者人形を飾るようになったのです。 「鯉幟(こいのばり)」も江戸時代から始まりました。中国に「鯉が竜門を上り竜となる。」と言う故事があり、これにあやかり、子供の出世を願うものです。 「ちまき」をたべるのは中国の風習が伝わったものです。 古代中国の楚の尊敬されていた詩人「屈原(くつげん)」が川へ入水自殺を遂げた日が5月5日です。この日を祈念し、人々が竹筒に米を要れ川に投じていました。ある日、屈原の例が現れ「米を竜に取られるので、茅(ちがや)の葉で包んでほしい。」と告げられとすろ故事がちまきの始まりです。現在では、茅の代用として「笹」が使われています。 「柏餅」は跡継ぎが絶えないよう、子孫繁栄の祈願です。柏の特徴によります。柏は古い葉が落ちるまで新しい葉が生えないからです。  

 

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            • 衣替え

 

衣替えは、季節に合わせた衣類にかえることですが、昔は国の決まりでした。 近年では、毎時政府により定めで、6月1日に夏の衣替え、10月1日を冬の衣替えとした。現在は組織団体が頃にならっているだけです。 かつては、裏地のない「単重(ひとえ)」と裏地のある「袷(あわせ)」に変更する日です。 平安時代では「更衣(こうい)」と言いました。宮中で4月と10月の朔日(さくじつ。1日のこと)に行われ、4月1日の更衣を「綿貫」呼んでいました。綿入りの着物から綿を抜くことです。このしきたりが民衆にも広がりましたが、4月はまだ肌寒い時期であり、貴族に用に重ね着をすることはできませんでしたので、江戸幕府がゆうよ期間を設けました。 4月1日から5月4日(端午の節句の前日)、9月1日から8日までを「袷」、5月5日から8月末日までを帷子(かたびら。単衣のよいに裏地がない着物)、9月9日ぁら3月末尾までを「綿入れ」と年4回の衣替えを決め、民間人も頃絵にならいました。政府による、着物の管制はこの頃に始まりました。 現在では、公務員の制服が規則で差でめられていますが、全国統一ではな、所轄高級人事権者の定めるところによります。

            • 七夕

 

七夕伝説はふるくから伝わる日本の伝説「棚織津女(たなばたつめ)」と中国の伝説「牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しくじょせい)」のハイブリッド伝説です。 棚織津女の話 村の災厄を除くため、女が機織り小屋に篭って天から紙が降りてくるのを待ち、神の一夜妻(お夜伽)となる話です。 牽牛星と織女星の話 牽牛と織女の夫婦が天帝に悪態をついた罰として、天の川の対岸に引き離し、年1度だけ逢わせるという話です。どんな悪態でその罰が下ったかは伝わっていません。天の川である理由もわかりません。 この話が奈良時代に伝わり、日本の伝説と合体しました。

            • 針供養

 

2月8日と12月8日は「針供養」の日です。 女性が日頃使っている縫い針を供養します。この行事は古いものではありません。江戸時代から始まりました。 当時、裁縫は女性の代表的な仕事でした。縫い仕事の最中に、折れ曲がった針やなど使用できなくなった針は捨てないで、この日まで保存していました。 供養の作法は、蒟蒻や豆腐にその針を刺して、川流しをするか、神社、お寺に持って行きました。その針はもち帰りません。 どこの社寺でも取り扱う供養ではなく、「針供養」ができる社寺は決まっていました。 そこで、日常生活に必要なhりに感謝し、合わせて裁縫の上達を祈願しました。 ここまでが建前です。 女性の過酷な家事労働から一時、休息の日を拵えたのです。 地域によっては、年一回のところや、日にちが違うところがあります。それは、この両日とも、「事始め」、「事納め」の厄日となっているからです。 近年、一般のご家庭で、この行事を行うことはありませんが、服飾デザイナー、和裁、洋裁の学校ではこの行事を行うことが多いです。

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            • 土曜の丑の日

 

  土曜とは、雑節に決められている暦で、現代では、立秋前の18日間にある土用を指しています。 本来は、立春、立夏、立冬の18日間にもあります。 この日は夏真っ盛りで、昔から夏バテに苦慮している時期でした、一節では、江戸時代のマルチ武士「平賀源内」が考案した「うなぎ」の販路拡大のために生み出したキャッチコピーと言われています。 江戸時代から、この日には夏バテ防止、回復のため、薬草入りの風呂に入ったり、お灸をしたそうです。 「うなぎ」は、当時の言葉遊びとして、「丑(うし」のうがつくものを食べれば良いとされていました。無論、いくら江戸時代でも、本気で信じた人はいないでしょう。 食べたものは「ウリ」、「梅干」もありました。 面白いのは、今でも迷信として残っている食べ合わせの代表として「うなぎと梅干」がありますが、これも、平賀源内の仕業と考えられています。うなぎ販路確保のため、「梅干」は食べ合わせが悪い。とされました。しかし、特にこの時期は、梅干が丁度漬けられる時期ですから、梅干の状態の梅は最も古い状態であったか、すでになくなっていることもありました。  

 

     

 

          • 盆(盂蘭盆会)

 

 神道とは無関係、仏教の行事です。 死者の霊は年に一度、厳正に戻ると考え、その日が「盆」です。 宗派、地域等で、行事の進行、期間、しきたりが大きく違っています。 ここでは一般的と考えるお盆について紹介します。 「盆」と仏教が起こった古インドのことば「サンスクリット語」の「ウラボンエ(盂蘭盆会)」の一部の文字です。 由来は、釈迦の弟子の一人「目蓮(!日蓮ではない。)」が、地獄で「逆さ吊るしの罰」に苦しむ母を救いたいと、師匠に相談し、師匠釈迦が、「7月15日に供養せよ。総数れば救われる。」と教え、目蓮はそれを実行し母は救われ極楽浄土へ行けた。と言う話により、「盂蘭盆会」の行事が始まりました。 地方、宗派により、盂蘭盆会の行事は7月15日を中心に3日間、それぞれのプログラムが有り、行事を執り行うこともあります。 盆を「盂蘭盆会」、「精霊会(しょうりょうえ)」と称することもあります。特に「盂蘭盆会」はその発音から「裏盆」とし、対して「表盆」や「中盆」などに言い換え(書き換え)それぞれ違ったプログラムが行われることが多いです。 沖縄県の13日(ウンケー)、14日(ナカビ、ナカヌヒ)、15日(ウークイ)が典型です。 サンスクリット語の「ウラボンエ」とは、「逆さ吊りの苦痛を救う」と言う意味です。 盆は、宗教行事であるため、本来は7月15日が正式です。しかし、日本は明治6年まで「旧暦」が公暦でしたから、先祖崇拝の観点から、旧暦7月15日とすることが多いです。

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しかし、現代でも誤った言葉遣いがまかり通っているので、ここではっきりしておきます。 そもそも、「旧盆」なるものはありません。つまり、「新盆(注意が必要)」もないのです。 あるのは次のとおり ・旧暦7月15日・・・沖縄県、奄美諸島 ・新暦(現在のカレンダー)の7月15日・・・関東都市部、函館、旧金沢市街地 ・新暦の8月15日(月遅れ盆)・・・全国的 ・8月1日・・・便宜的 以上です。 特に、旧暦の7月15日は8月であることが多いこと、満月であることから宗教行事としてはもっとも適切と感がれられます。しかし、8月15日は、忘れられない日付で、「終戦記念日」です。こレらのことから、元々、現世(生きている)の私たちの都合で移動していた行事ですから、8月15日を中心にお盆ムードとなっています。 新盆について。 この言葉を誤って使用することは恥とせねばなりません。裏盆の対義語ではなく、その家にとっての初めてのお盆のことを言います。とくに、家族が独立し、別家族が構成され、その家にとってはじめての死者を祀る盂蘭盆会を「新盆(にいぼん)」と言います。そうした事情から、このお盆は特別な思いを持って行われているはずですから、誤った使用は大恥なのです。 精霊について 精霊会(しょうりょうえ)とはお盆そのものをさす言葉で、盂蘭盆会と同義です。 精霊とは、死者の霊のことです。つまり、「精霊迎え」は霊が迷わず帰ってこられるよう、案内する行事、行いを言います。玄関に特別な棚を儲け「灯り」を灯したりすることもこれにあたります。 精霊流しとは、霊を返すため、備えた供物を川に流すことなどを言います。仏教では、現世と黄泉の境界に「川」があると考えられていることから、精霊流しが行われているとお考えます。 一部地域では、精霊流しに供物を流さないで、「灯り」を流すところがあり、「灯篭流し」とやぶ地域もあります。「流すイルミネーション」と言って喜んでいる若者には今後も恥をかきつづけるので、教えてあげることが大人の役目です。

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          • 盆踊り

 

 現在の神奈川県辺りを中心に興った仏教の一派(宗)である「時宗(じしゅう、旧、本来文字は、「時衆」)の行として、念仏を途切れさせずに継続させる為に行われた「念仏」が元祖です。 時宗の念仏は開祖者とされる、「一遍上人」が広めた「念仏踊り」と呼ばれるものです。輪番交代制(シフト制)で念仏を唱えるのですが、動作(歩き回る)を伴った念仏方法で、大勢の女性も加わりました。この念仏踊りが盆踊りの元祖であるに疑いはありません 。時宗の「宗」にあるように、仏教教義解釈の違いで「宗派」となった頃の初期では、「衆」が用いられていました。字意の如く、「念仏を唱える衆」を指したのです。 念仏踊りが「盆踊り」となったのは、これを行う時の「鳴り物」が多様化し、江戸時代には、三味線、太鼓、お囃子が加わり現代の状態になりました。 踊るフォーメーションは2つに分類できます。 通りを行列で練り踊る形態と、輪を作って踊る形態です。古いのは、「輪」です。 輪で踊るのは、「念仏踊り」がルーツではありません。僧が念仏を交代するのですから、継続する「輪」でないことは明らかです。もともと、この形態は「神の降臨」の現場を中心に、当時(かなり古い)の人々がクルクル崇めながら歩いたものと考えられます。原始宗教の多くにこの形態が見られます。 お囃子などが組み入れられ、大衆娯楽となった盆踊りは、苦を伴ってまで永劫継続する必要がないことから、中断しても当たる「バチ」がないので、いつの間にか輪踊りが盆踊りに使用されるようになったのです。 盆踊りの本来の形である行列踊りは、「阿波踊り」に見られます。カーニバル形式とも呼びます。 そのようなことから、盆踊りは「盆」の行事の一部ではありません。しかし、「盆」は仏教における大切な日ですから、この日に併せて念仏踊りが大衆化したと考えてよさそうです。 すでに、日本の盆は旧盆、新盆、旧暦盆、終戦記念日盆等、非常に、コンビニエンス、ご都合主義ですから、楽しめばいいのです。 しきたりは「伝統」です。現在も続くしきたりの様式、作法の多くは、民族古来のものであることが多いので、輸入宗教である仏教にまつわることがらは、祖先崇拝行事が基本であって、日常、冠婚葬祭、ハレとケガレ等に関することはおおむね「神事」と考えて良いのです。つまり、挙行する日付のアバウトが許されることは、「祖先崇拝行事」で、厳格に日付が守られる行事は、その日であること自体にもっとも重要意味を持つことから、「神事」と考えて差し支えありません。(一粒万倍日、や大安などが移動していいはずないですから。)

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        • 重陽の節句

 

 9月9日は重陽の節句です。 中国では、奇数の中で、特に「9」を「陽数」と呼んでいます。この「9」が重なることを「めでたい」と考えられていました。そこで、9月9日はめでたい日としたのです。 中国の歴史で、呉の時代(222年)から陳の時代(589年)を六朝時代(りくちょうじだい)と呼んでいます。 この時代に*「桓景(かんけい)」と言う人物がおり、彼にまつわる故事があります。 「この日は高所に登り集い菊酒を飲め。すれば災い避けゆる。」 この故事から、9月9日には小高い丘に集まって、紅葉を愛で邪気を払ったことが由来です。 古来。中国では菊酒は不老不死の妙薬と信じられていました。そこで、この日に飲む酒に菊の花びらを浮かべて呑むことが習わしとなりました。 この習わしが日本のしきたりとなったのは、飛鳥時代です。宮中の行事として菊花宴が開かれ、平安時代には、「重陽節」として正式な儀式となりました。 「紫式部日記」にはこの模様が記されています。 民間にこの行事が降りたのは江戸時代で、五節供の一つ「菊の節句」となりました。 現代では、この節句行事は忘れられつつありますが、各地で開かれる菊の品評会の形で一部残されています。 *桓景については、トロピカルぬらりひょんは知らないので解説不能です。    

    • お月見

 

9月18日前後にもっとも近い満月を「中秋の名月」と呼び増す。いわゆる「十五夜」です。 満月は、理論上「赤月」のみが100%満月です。つまり、皆既月食のことです。皆既月食は月齢15日にしか起こりません。 普段見えている満月は、地球が落とす影に入っていないので、太陽光線を反射して見えていますが、月の地球公転軸の南北どちらか僅かにズレています。従って、月の極付近が欠けているのです。 中秋とは、旧暦8月を指します。その15日の月が中秋の名月です。 この月を鑑賞する習わしは中国が発祥です。当時から、野菜や果物を備えて月を拝みました。 日本へは平安時代に伝わったようです。貴族階級の娯楽でした。早い時期から一般庶民にも広がったようです。「月」は無料で見ることがきます。また、供物は農産物ですから、農家にとっても大きな費用が必要のない娯楽として取り入れられたと考えます。 農家が供物に選んだ物は「里芋」です。このことから、この月を「芋名月」とも言います。 美しい月を愛でることが目的で、何かを祓う、祈祷する意味はありません。 また、10月13日前後の月齢13日(旧暦9月13日)の月も愛でました。 こちらは、収穫時期と重なっているので、収穫祭の意味合いがあると考えます。また、完全に満ちたばん月ではないことが、将来の豊作を祈願しているようにトロピカルぬらりひょんは考えています。

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    • 恵比須講(えべっさん)

 

大阪では「今宮戎」が有名です。日本の商売の拠点大阪ならではの「えべっさん」を冒頭にご紹介します。 「えべっさーーん!。○○株式会社代表取締役させてもろてます○○でっせ。今たんまり寄進させてもろたんは、わしでっせー!儲からさせてもろて、おおきに!今年もよろしく願いしまっせ!聞こえてまっかー!」 これは、大阪今宮戎の「十日戎」の携帯の模様です。今宮戎は耳が遠いので、大声で怒鳴らねばご利益がありません。大変です。 戎(恵比寿)に限らず、日本の神様への詣では、基本「お礼」です。ヤクザが仕返しすることを「お礼参り」といいますが、神道ではこれが基本です。しかし、商売人には、それだけではすみませんので、まず、去年のお礼を叫び、そのあと、お願いをします。たとい、去年の業績がかんばしくなくても、今年こうして、役名を名乗りお参りできるということは、少なくとも、「倒産」の憂いに遭っていない証拠ですから、「生きてるだけで丸儲け」として、お礼を述べるのが作法です。怠るとバチがあたります。 関西ではなく、一般的には、商家の主人が恵比寿様にお参りします。毎年1月と10月の20日です。 恵比寿様は七福神の1柱で、経済的繁栄全般の神様ですので、商家では無論商売繁盛を祈念するのですが、農村では、豊作を、漁村では大漁を祈念していいのです。 京都府南部から大阪府北部にかけては、竹、笹の一大林でした。大阪万国博覧会、千里ニュータウンはこの竹林の大伐採から始められた商用、住宅地大開墾でした。 「ショウーバイハンジョデ笹持って来い!」これは、竹類が常緑であることから、永久の繁栄を望む象徴として、この恵比須講のアイテムとなりました。むかし、関西の自然竹林からの笹が飛ぶように売れ、それが今も続けられています。

  • 酉(とり)の市

全国の凰(鷲)神社(大鳥神社)は、武運長久(ぶうんちょうきゅう)の神として祀られています。

一番人気の酉の市は「東京浅草酉の市」です。目黒の酉の市は「ナイス的」だそうです。(浅草のはダサくて、目黒が垢抜けているとのことらしいが、トロピカルぬらりひょんは「ナンデヤネン共和国」出身だから、えべっさんの方しか詳しく知らない。)

武運長久とは、武士であり続けるという意味ですから、外国人には真意が伝わりません。どちらかと言うと、出征した我が子の生存を祈りたい気持ちから大戦中によく使われました。転じてと言おうか、意味が柔らかくなり、武士、武人の身分が長く続くことと捉え、戦場で功績を残し、かつ、生きており、現役を長く続けることができる。という意味となっています。

現代ではどう捉えても自由ですが、大鳥神社が祀る神は「戦の神」ですから、武士の誇り崇に対し、礼するのが本来です。

つまり、大鳥神社は、本来、一般人の詣での対象ではなかったのです。武士の信仰対象でした。江戸時代、平和が長く続く世となりました。この時代に商売系神様に転じました。

大鳥神社は、11月の「酉の日」にお祭りを行います。このとき、祭礼の市が立ちます。ここで、農具を販売すると、「金物」として喜ばれ、特に、かき集める道具である「熊手」が飛ぶように売れたことから、縁起大衆心理により、酉の市が熊手祭りの様相を呈したのです。

信仰は武芸から商売へシフトし、商売関連縁起物なら何でも売ることになりました。中には、こじつけて縁起を担ぎ現代に引き継がれています。

里芋は地中で5から10個ほどの芋の集合体として収穫されることから、「八頭(やつがしら)」よ呼ばれるようになり、8個の脳ミソと同じパフォーマンスを得られるとこじつけました。酉の市の商売運気に脳ミソがなんの関係があるのかは知りませんがとにかく、縁起物として売られます。

酉の市では、売る方は、いかに安く売ったかが「誇り」でした。買う側はいかに高く売ったかが問われました。従って、この市での商談は、通常社会の逆が行われ、それがいかに異常な価格に高騰し販売されたが、話題の中心となり、商談成立では「三本締め」威勢良く響くのが酉の市の風物です。

商品の例

・お多福面 ・宝船模型、版画絵 ・粟餅 ・七福神像、版画絵

暦の都合上、11月に3度、酉の日がある年があります。この年は火災が多いとされています。根拠はありませんが、戒めの慣用句的に言われます。

意味:短期間に楽しい祭りが3度もあるので、浮き足立つことから、「調子に乗るな」という意味。

 用例:「のぼせるなー!三の酉じゃあるまいに。」

三本締めの意味

主に関東のしきたり。大阪ではやらない。
手を打つ(かしわ手)ことを手締めと言い、その一種。

手締めは二種類あり、「ヨヨヨイ」の方でない方、「タタタン、タタタン、タタタン、タン」の方を3回続けてやるほうが三本締め。「・・・ヨッ」が一本締めだと言う者がいるが、誤り。

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  • 年の市

最も有名な「年の市」は東京都の「世田谷ボロの市」でしょうか。

歳末に立つ市のことです。年末ギリギリの市を指すのではありません。都市、地方都市に毎年12月13日から10日立つ市で、お正月に入り用な物が商品です。商品は、昔、農家、漁業を生業とした人たちが、収入を補うため、正月のお飾りなどを販売していました。日本の戦国時代の終焉期の行われた商業の規制緩和施策として「楽市、楽座」があり、これが起源です。

売主の多くは、山間部、海浜部の人たちでした。従って、彼らの故郷では、この市の売れ残りが販売されたことから、年末の市であったので、「詰市(つめいち)」と呼ばれたり、年を繰り越すと価値を失うため、大安売りとなり「捨市(すていち)」とも呼ばれています。

世田谷ボロの市は年が明けても行われ、毎年12月15,16日と1月15,16日の午前9時から午後8時まで開きます。曜日は無関係です。

この市に当たる大阪の市は「天王寺さんの蚤の市」があります。

ちなみに、「フリーマーケット」は「自由市場」ではありません。フリーは自由ではなく、「蚤」の英語です。綴りが違いますが、ここにはあえて書かないでおきましょう。

 

  • 年越し蕎麦(そば)

年越し蕎麦が始まったのは、江戸時代の江戸です。

これは、商家の従業員の年末の食事でした。当時、どこの商家も大変に忙しく、使用人は大晦日となれば、走り回っていたのです。自動車、バイクとかありませんからね。また、主は使用人へ一年間の慰労もする必要がありあました。

そこで、集金やら、御用聞きで走り回る使用人に、どこの家でも自由に、早く食べられる蕎麦を食うことが許されていました。各家では、大晦日の日は、いつでも御用聞きがきたときには、蕎麦を振る舞えるよう支度したのです。この蕎麦は使用人の食事でもあるし、慰労でもあったのです。

また、当時、「江戸煩い」と言うビタミンB欠乏による「脚気(かっけ)」が流行していました。その頃、原因は知られていませんでしたが、蕎麦を食べると回復することがあったのです。脱穀せず粉として製麺することからビタミンBの補強がなされたのでしょう。とにかく、流行病が治ることから、蕎麦が縁起物となったとも言われています。

蕎麦を製麺して食べるようになったのは、この時代からで、その昔は「団子」いわゆる「そばかき」でした。麺として「長いもの」が長寿に繋がる縁起物とされたのは、後付けのキャッチ・コピーフレーズです。

下級武士の仕事として、金箔作りが加賀藩で行われていました。この現場と、金細工を行う職人は、貴重な金箔のチリを蕎麦団子で集めて、金をとりだし、有効利用していました。金粉が混じっている蕎麦が縁起物とされたと言う話もあります。

ちなみに、現代は、関西でも年越し蕎麦を頂くのが普通に見られるようになりましたが、本来は江戸の風物詩です。食べ方が違っていて、関西では「かけそば(熱いそば」で、関東は「もりそば(冷たいそば)」がスタンダードです。

沖縄でも、食べますよ。最近だそうです。もちろん「沖縄そば」を食べます。このソバは蕎麦0%です。

 

  • 除夜の鐘

お寺が「年の初めに」行う「大祓え」の行事です。年の終わりではありません。

しかし、現代では、結果として、大晦日の夜の行事です。
昔は、一日が0時から始まり、24時で終わる。つまり、子の刻の始まりから、亥の刻の終わりが一日の終始ではありませんでした。この考えは近代的な考えで、昔は日没が区切りでした。したがって、時計は季節で違っています。

除夜の鐘は大晦日の日没後にその行事が始まり、鐘を突き始めるのは深夜となります。したがって、当時の考えは年末行事ではなかったのです。

主意は一年の「ケガレ」を払うことが目的です。

108突く理由は諸説あります。一つだけ面白い説を紹介してい起きます。

一年が12ヶ月であること、二十四節句あること、72候(こう:昔のカレンダーで5日を1候とした。)であること。
ここから、
12+24+72=108
と言うものですが、その数字を足し算することにどのような意味があるかは知りません。かなり疑わしい説です。

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このコーナー「行事」はとりあえずこれで終わります。
私が思いつくところの日本人として知っておかねばならないであろうことは、ここまでです。無論、これで足りようはずありません。教え、助言を頂いて、更に知ることがあれば、その都度加筆しますが、一応ここで区切りとします。

<by O.Youki:1june15>

 

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